あの日あの時あの人はVol.3(2011年)

7期生 昭和32年3月卒業 福留フク子

7期 福留フク子

女学校から新制高校に移行した後の、追いつけ追い越せという張り詰めた空気が学校全体に満ち溢れていた時代の三年間だった。八時間の授業の日があり、定時制の人達が待ちきれず、夕闇せまる窓越しに教室をのぞいたりしていたものである。
『十傑』という言葉があった。毎月実力考査が行われ、上位十番までをそう呼び、氏名の書かれた木札が張り出されるのだ。
同期生は、九大はもとより京大、慶応、早稲田などに合格し、何年かの浪人の後、東大へ入った人もいる。東大は稲高卒業生でただ一人だそうである。あの『十傑』の呼称と木札はいつごろまでつづいたのだろうか。
そんななかで二年生になって間もなくピアノを弾き始めた。
そのころ、ピアノのある家は少なく、学校に二台あったピアノは順番待ちで、朝も昼休みも放課後も体育館にはピアノの音が絶えなかった。私は朝早く登校して先輩に教わったりしていた。
当時は稲築町民にとっての県立高校の選択肢は稲高のほかにはなく、同じ小中学校出身者は何人もいた。
初めから友人関係で戸惑うこともなく、遅い下校時を急ぎながら笑いさざめき合ったものである。通学仲間の一人が書いた小説を読みながら帰ったこともあり、そんなところにも青春は輝きを放っていた。
帰郷するたびに八木山峠から見下ろす嘉穂盆地の風景には、いつも胸こみ上げるものがあった。
そんな思いを詠んだ一首だが歌集『丘の一樹』に収めておりどなたかのめにとまったらしくて『歌まくら』の福岡編筑豊の部にとりあげられていた。
詩や短歌に興味をもちはじめたのは十代の初めだった。
請われて最初に短歌教室を開いたのは二十年以上も前で、現在、四教室ある。教室というより寺子屋と呼ぶ方が相応しいが・・
同期生の歌会は二〇〇三年に初め、「稲穂の会」と名づけた。現在は後輩や同期生夫人の参加もあり、作品の上でも幅が出てきてきた。国語を教わった今井先生の影響もあり、万葉集への興味をもちつづけているが、寺子屋のメンバーを引き連れて、何度も奈良や筑紫、稲築の万葉の古地を訪ねている。
ご存知のように稲築・鴨生は山上憶良が『銀も金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも』を含む「嘉摩三部作」を選定した所としられており、歌碑もたくさん建てられている

今年六月『稲穂の会』では大宰府の歴史と万葉を学んだあと、稲築・鴨生の憶良歌碑を訪ねた。
(そのあと全員で稲耕会本部総会に出席)初めて鴨生を訪れたメンバーにとっては新鮮な出会いとたくさんの発見があったようである。
さらに、稲築で選定された万葉の歌を誇りとし、文化遺産として守りながら後世に伝えたいと、長い年月努力してこられた方たちが、何人もおられることを知った。そんな方たちへ深い畏敬の念を抱いたのは、私ひとりではなかったようである。

歌人