あの日あの時あの人はVol.1 (2009年)

私の稲高ペレストロイカ

tanaka
第十三代校長 田中 正行


稲耕会東京支部の皆様如何お過ごしでしょうか。
ここ九州では、九月に入っても連日の「猛暑の秋」、一日も早い秋の訪れを待ち望む昨今です。
さて「人生は出会いである。人は出会いによって花を咲かせ、その縁によって実を結ぶ」と言います。私は昭和六二年四月、稲築高校第十三代校長を拝命した日から、皆様の母校との出会いと結実の日々がスタートしました。同年四月三日学校着任の日に、豊本同窓会会長より「同窓生が自分の子供を入学させたくなる学校に」、西野保*****より「在校生が自分の学校に誇りを持てる学校に」のご注文。
私にとっても己に至言。yakuba
この日以降、お二人と私は三人四脚の超多忙な日が続くことになりました。
私たち教師生徒は一丸となって「稲高ペレストロイカ」を合言葉に、目の前の生徒を変えられずして何が教育か」と学校改革に着手しました。「するな」指導から「しよう」指導への方向転換です。改造多発の制服はハイセンスなブレーザー、空きカン拾いや施設訪問等のボランティア活動。これからの活動を先生や生徒達で内なる改革とするならば、学校全面移転の大事業は、同窓会保護者を中心とする地元稲築町や学区内二市八町の首長と議会の皆様、それを梃子にした地元選出の県議会議員の茂名様並びに県当局への誠心誠意の熱き陳情が不可欠でした。不撓不屈の努力もありましたが、私が西野会長に移転構想を打ち明け町内の候補地を案内して頂いた六二年五月から、二年足らずの平成元年二月に早くも全面移転の内示を頂けるとは、己に空前絶後の神業でした。確かに成功のわけは幾つか挙げられます。
新用地買収や旧校地の跡地利用という難事業を敢えて引き受ける決断をして頂いた嘉穂町長が、私が校長着任直後の選挙で見事当選され、しかも主審高校が同じ山田と言う縁もあり、私の保々毎日の町長陳情を笑いながら許していただき、しかも極寒の雪の中を稲高生と一緒になって町内の空きカン拾い同行される程の大の稲高びいきの教育熱心な人であったこと。
飯塚選出の、故三木清氏に移転推進のリードをして頂、石炭六法等旧産炭地特法が期限切れ直前で法の適用に間に合ったこと等々。しかし結局は、田中という向こう見ずな新米校長と稲築高校に強いエニシをお持ちの多くの方々との運命的とも言える出会いが花を咲かせてくれた神の力のさせる事かと信じている私です。心に念ずれば花開くの業でしょう。不思議なめぐり合わせを感じます。