あの日あの時あの人はVol.4 (2012年)

egichi
15期 江口 昌子

当時は高校へ進学するのが全生徒の1/3弱であったように記憶しています。
ごく少数の越境入学で他校へ行った人もいますが、普通科は稲築高校というのがあたり前の時代で、前学年までの四学級が五学級となり、生徒数が増えている頃でした。私は、滑り止めに私立も受験しましたが、稲高の合格発表の日、三期生の姉がとても喜んでくれました。県立高校以外受験させてもらえずあいにく不合格となった親友は地元を離れ音信不通となり、そのことが今も頭から離れません。
そのような時代に高校生活がスタートしました。
高校でも成績が張り出されますが、中学校と違い少し頑張ったくらいではどうにもなりません。野見山光義先生に「お姉さんとはえらい違いだ」といわれたことを納得するしかありませんでした。そんな私ですが夢だけはありました。小学五年生より始めたピアノを続けて音楽の道へ進みたい。早く死別した父が生前「女の子は薬剤師がいい」と言っていたと聞き薬剤師も・・・・
しかしながら自分が理系に向いていると思えず音楽の才能も無く、結局高校二年の時にピアノのレッスンを止めました。
これといった目的も無く、でも進学したくて、福岡女学院短期大学家庭科へ進みました。その後は日本女子大学へ編入、通信教育生となり、学生が夏休みの間だけ学校に行き、講義・実習と学生気分を味わいました。
保母、医療事務と資格だけは取りましたがなんの役にも立っていません。
そんな中でも私にとって同窓会は大きな意味を持っています。同窓会の席上、先輩の方から声をかけていただきました。歌人である七期生の福留フク子先生の指導のもと、横浜で歌会が開催されているとのこと、場所も自宅より数分の距離、声をかけていただいた先輩も近所にお住まいでした。短歌とは縁のない生活をしていましたが、同郷の方と会えるのを楽しみに参加させていただき二年が過ぎました。
歌会の緊張感は大いにありますが、後の食事会(飲み会?)を楽しみに月一回が待ち望まれる日となりました。
そのような折に実現したのが昨年の「山上憶良ゆかりの地稲築万葉の歌碑めぐり」の旅でした。
子供の頃、図画の時間に写生でよく行った稲築公園にも歌碑があり、憶良ゆかりの地であったことは驚きでした。久しぶりに訪ねたふるさと、今は緑になったボタ山を見ても、昔の煙を吐いていた三角の山と重なってしまいます。eguchi2

昨年に続き今年もまた本部の同窓会に出席する事ができましたが、その盛況さに驚くと同時に、何十年経ても変わらぬ友情をあらためて胸に刻んだことでした。